其の壱 僕の宗教観
日本人には宗教観がないとよく言われる。「あなたの宗教は何ですか?」と問いかけたとすれば、すんなり答えが返ってくる人はまずいない。また、結構多くの人の頭の中には「宗教=一部の新興宗教」という図式が出来上がっているので、「宗教」あるいは「信仰」というものに対して否定的な感情すらあるのではないか。これがヨーロッパのキリスト教圏の国の人であれば、普通に「クリスチャン」と答えが返ってくるだろうし、彼らは当たり前のように日曜日には教会に行く。僕の場合、こういう質問をされたならば、間違いなく「仏教」と答える。
日常的に仏教に接している日本人は数少ない。だから、自分の信教が仏教であるとは認識していない。しかしながら、大多数の人(家)はお寺と関わりをもっている。葬式、法事などの時にのみ、仏教を意識する。いや、正確には仏教を意識しているとは言えない、なぜなら多くの人が見ているのは、僧侶がきて経を唱えるその行為のみだからだ。 葬式、法事でしか仏教と接しない以上、仏教から連想されるもの、それは「死」以外にないだろう。もっとも日本では多くの仏教者が「死後の世界」「死者の魂」などという事を口にしてきた。そして、古代のインドにも「死後の世界」という概念は既にあった。しかしながら、釈尊(ゴーダマ・シッダールタ)は死後の事については何も語っていない。ある信者の「人は死んだらどうなるのですか?」という問いに対し、「死後のことは考える必要はない」と答えている。そう、仏教が語るのは「生きること」のみなのである。
僕はまず「釈尊は何を語ったか?」を学んでいきたいと思っている。とは言え、釈尊自身は何かを書き残したわけではない。今に伝わっている釈尊のエピソードは全て弟子たちの口伝によるものである。そこには弟子たちの思想が多少なりとも加えられているであろうが、それはそれでよい。なぜなら、どちらにせよその思想には僕の思想が織り交ぜられるからだ。そんな事で良いのだろうか?良いのである。釈尊の最後の言葉は「自燈明 法燈明」なのだから。 |